2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

 
         第四回講義 (20081014)
 
<前回のコメントの続き>
4、分析的と綜合的の区別を認める者は、この区別が分析的である、あるいは分析的の定義が分析的である、というだろう。
 この区別を認めない者は、「L0において分析的」と「L0において綜合的」の区別が綜合的であるというだろう。
 
5、「もし我々が文の同義性を無意味なものとして放棄するのならば、我々は、文の有意味性も無意味なものとしえ放棄しなければならない。しかしそのときには、我々は意味の観念もどうように放棄しなければならないだろう」(p.146)が、それはおかしい。というのが、P Grice P. F. Strowson の“In Defence of a Dogma“(Philosophical Review, LXV (1956) pp.141-158における批判の一つであった。
 
クワインは、「真理値を変えることなき交換可能性」によって、同義性を定義できると考えたが、ただし、そのときには、次の二つの同義性を区別できないことを指摘した。
  「独身男」と「結婚していない男」
「心臓をもつ動物」と「腎臓をもつ動物」
後者の交換可能性は、意味に基づくのではなくて、偶然的事実に基づく。
前者の交換可能性は、言葉の意味に基づく。
いわば、前者の交換可能性は、分析的であり、後者の交換可能性は総合的である。
この二つを区別することがここでの課題であるから、「真理値を変えることなき交換可能性」では、求める区別立てができないということになった。
 
ここでクワインは、(上の二つはどちらも「認知的同義性」である。前回のまとめはこの点で間違っていました。)意味に基づく「認知的同義性」が、無意味であると述べているのではない。意味に基づく「認知的同義性」を明確に定義できない以上、それよって「分析性」を定義することはできない、と述べているのである。
 
しかし、クワインのこの論文の結論が、分析的真理と綜合的真理の区別の否定であるならば、上記の二つの同義性(分析的同義性と綜合的同義性)の区別も否定される。外延的言語での「真理値を変えることなき交換可能性」が「認知的同義性」を定義できるのであれば、言語の有意味性について語ることが、まったく不可能になるわけではない。
 
ただし、クワインも、これでは不十分だと考えている。第三章「言語における意味の問題」で、言語における有意味性を定義しようとしているが、それは未完成にとどまっている。
 
入江の疑問:クワインは、言明の真理値の理解にもとづいて、同義性や有意味性を理解しようとしている。これは、デイヴィドソンの真理条件意味論とよく似たアプローチである。しかし、言明の意味の理解と、言明の真理値の理解もまた、循環しているのではないだろうか。
 
       §5 Putnamからの批判
 
 パットナムは、クワインの「二つのドグマ」を批判する。批判の一つは、「同義性」を分析性を用いずに説明できないというクワインの主張、に対する批判である。もう一つの批判は、あらゆる論理的真理が改定可能性であるというクワインの主張、に対する批判である。
 
ヒラリー・パトナム「分析性とアプリオリ性 ウィトゲンシュタインとクワインを超えて」飯田隆訳(パトナム『実在論と理性』勁草書房、所収)以下の引用はこの翻訳からであり、数字は訳書の頁数を示す。
Hilary Putnam, ‘Analyticity and ariority beyond Wittgenstein and Quine,’ in  Realism and Reason, Philosophical Papers Vol. 3, Cambridge UP. 1983
 
           
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               パトナム
  「分析性とアプリオリ性 ウィトゲンシュタインとクワインを超えて」
                  の要約
 
第一部 数学的必然性が、人間の本性や「生活形式」といったものでは説明されないのは、なぜであるか
 
*数学的真理は意味公準とそれからの推論の帰結(定理)からなる。
「数学的真理のうちの有限個のものだけが、原始的な記述の規則(カルナップの言うところの「意味公準」)となりうる。数学的真理の大部分は、直接的な形での意味の約定や「記述の規則」といったものではなく、「記述の規則」からの帰結でしかないのである。」160
しかし、これは不十分である「それは、ウィトゲンシュタインとクワインの両者によって指摘された理由による。すなわち、規約からの帰結を引き出すためには、論理が必要なのである。」160
 
*根源的規約主義:ダメットのウィトゲンシュタイン解釈
マイケル・ダメットは、大胆な可能性を示唆した。すなわち、ウィトゲンシュタインは過激な規約主義者であるという可能性である。ウィトゲンシュタインは、意味公準の有限個の集合のみが規約によって真であるとするだけの規約主義ではなく、論理や数学において我々が「証明」と呼ぶものを我々が受け入れるときには、常に決定という行為が含まれているとする規約主義である、というのである。そして、その決定とは、その証明を受け入れるという決定である。」161
 
*生活形式:ストラウドのウィトゲンシュタイン解釈
バリー・ストラウド(Straud)は、ダメットのこの解釈に反対した。
かれによると、「何らかの証明を我々が証明として受け入れる原因となるものは、規約や規定ではなく、我々の生活形式(すなわち、われわれについての生物学的事実ならびに文化的歴史によって決定される、我々人間の本性)である」161
 
*パトナムからのこの二つの立場への批判
パトナムは、この二つの解釈はともに、「数学的必然性が我々に由来する、数学的真理および必然性を説明するものは、人間の本性と生活形式である」、と主張しているという。
 
そして、この立場に対して、パトナムは次のように批判する。
「我々の本性、我々の生活形式といったものは、他の無矛盾である公理の集合ではなくて、ペアノの公理を我々が受け入れるのはなぜであるかをせつめいできるかもしれない。だが、我々の本性が矛盾している公理の集合を真とする、といったことは不可能である。無矛盾性とは、客観的な数学的事実であって、経験的事実ではない。つまり、我々の本性であるとか「生活形式」によってはどのような意味でも説明されないような数学的事実が、[・・・] 少なくともひとつは存在するのである。」163
 
「私の土地にナナカマドの木があるという判断の真理性は、我々の本性に依存しているが、それは、我々の本性以外のものにも依存しているのである。それは人間の本性についての事実によって説明される真理ではない。それは、我々に由来する真理ではない。同様に、ペアノ算術が1020 −無矛盾であるということも、我々の本性に依存してはいるが、我々の本性以外のものにも依存している。それは同じく、人間本姓についての事実によって説明される真理ではない。」168
 
 
第二部 クワインについて177
 
*ウィトゲンシュタインとクワインの立場の対比
「ウィトゲンシュタインが穏健な規約主義から過激な規約主義へと向かったのに対して、クワインは穏健な規約主義から経験主義へとむかった。」178 数学の真理は、全ての真理と同様、経験的であると共に、「規約的」でもある。」178
 
「ウィトゲンシュタインの見解の問題点は、それが数学と論理学の改定不可能性を誇張しているところにある。クワインの見解の問題点は、それが数学と論理学の改定不可能性を軽視しているところにある。178
 
 
「私が考えていることは、(こういうのは、顔が赤らむ思いがするのだが)、ア・プリオリであるのは、大部分の言明がある論理法則に従うということである。」178
 
「ア・プリオリな真理は存在するのだろうか。言い換えるならば、真である言明であって、(1)それを受け入れることは合理的であり(すくなくとも、適当な論証が私にみつかるときには)、かつ、(2)世界がどのようなものになろうとも(認識的に、つまり、世界がどのようなものであると判明しようとも)、その言明を後になって拒否することは決して合理的ではない、そのような言明は存在するだろうか。もっと簡潔にいえば、認識的に可能な世界のどれひとつにおいても、その真理性を否定することが正当化されないような言明は、存在するだろうか。」179
 
{入江のつぶやき:この定義だとクリプキの言う「必然的な真理」になるのではないだろうか。パトナムは、「ア・プリオリな真理」と「必然的真理」の区別をしていないように思われる。}
 
「言明であって、文ではない。なぜならば、どのような文φについても、φを否定することが合理的であるような状況を想像することは、簡単にできるからである。そのためには、φに現れている語の意味を変える――何らかの適当な仕方で(たとえば、φが異なる二つの時点でそこに属している言語と、それとは別の中立的言語との間の標準的翻訳マニュアルを用いることによって、語の意味を与える)――ことが合理的であるような世界を想像するだけでよい。よって、改定不可能である文があるとは、だれも主張することはできないのである。」179
{入江のつぶやき:これはどういうことだろうか。φが「猫がマットの上にいる」と言う分であるとしよう。しかし、我々は「猫」が犬を指示する世界を想像することが出来るので、どんな文も改定不可能であるとは言えない、ということだろうか。もしこのような議論であるとすると、それは言明についても同様ではないのか。}
 
*クワインは、「同義性」への批判から「アプリオリ性」への批判にいたる。
「クワインのように、同義性なるものは意味を成さないと主張する哲学者――つまり「二つの異なる時点で、φは同一の言明を表現しているか」という問に何らか明瞭な意味があることを否定する哲学者――にとっては、この問に対する答えの一つは、ただ単に、アプリオリ性は無意味な概念であるということである。アプリオリ性の概念は、分析性の概念と同じだけ、同義性の概念を前提しているのであり、同義性の概念が無意味であると同じ理由によって、アプリオリ性の概念も無意味なのである。」179
 
*パトナムの反対
「私の考え方からすれば、同義性のもっともな基準(たとえ、それが、関心に相対的なものであろうが)はまったく存在しないという主張に立脚しているような哲学的主張はどれも、明らかにばかげた帰結に導くと思われる。」180
 
パトナムは、この論文では、「同義性」の基準を与えていない。それはおそらく他の論文で扱われているのだろう。
 
「「カルナップと論理的真理」でも彼は同様な議論を用いているが、彼はそこでは、明示的に教訓を引き出している。「我々は、アプリオリな知識における規約の役割を理解しようとしてきた。今やあぷりおりと経験的との間の区別そのものが揺らぎ分解し出している」」181
 
*少なくとも一つの言明はアプリオリである
すべての言明が同時に真かつ偽であるということはないことを、完全に理性的な存在者が否定することはありうるだろうか。はっきりさせるために、言明と言うことで意味するものは、単に信念あるいは可能な信念であると決めよう。」182
 
少なくとも一つの言明はアプリオリである。なぜならば、その言明を否定することは、合理性そのものを失うことであるから。」182
 
*アプリオリな真理「全ての言明が真であると同時に偽であるということはない」
少なくとも、ひとつはアプリオリな真理が存在するようにおもわれる。すなわち、全ての言明が真である(あるいは、それを主張することが全くただしい)と同時に偽である(あるいは、それを否定することが全く正しい)ということはない。183
 
「全ての言明が真かつ偽であることはない」(あるいはもっと単純に「全ての言明が真であるわけではない」の解釈として私が考えているものは、この言明を受け入れることが、AIRを拒否することと同じく、真理及び虚偽が何に存するか(あるいは、正しさが何に存するか、推論とは何であるか)についての何か特定の見解へのコミットメントを含まないことである。)」184
 
読者は、私が矛盾律をこれほど弱い形で述べたのはなぜなのか、不審におもっているかもしれない。なぜ私は「pかつpでないということはない」をアプリオリな真理の例として取らなかったのか」184
 
「あたらしいやり方は、関連論理(relevance logicに基づいているかもしれない。(関連論理においては、「矛盾からはいかなる言明も帰結する」は、真ではない。)」185
関連論理は、A. R. AndersonN. D. Belnapが始めた論理学で、矛盾の適用を制限する論理学(praconsistent logic)の一種である。パラコンシステント論理学には、これとは異なるタイプもある。
 
「しかし、それだからといって、全ての言明が同時に真かつ偽であると信ずること(あるいは、言明は、概して、真かつ偽であると信ずること)は合理性の放棄であるという我々の議論には、何の影響もない」185
 
(入江の疑問:将来ある論理学者によって、「全ての言明が真である」とか「全ての言明が真であると同時に偽である」をある制限つきで受け入れることをみとめる論理学が考えられるということも想像できる。例えば、全ての言明は問に対する答えとしてのみ意味を持ち、真理値をもつが、ある特殊な問に対しては、「すべの言明が同時に真かつ偽である」が答えとなる、というようなことが考えられるかも知れない。)
 
なぜ、パトナムは、アプリオリな真理を擁護しようとするのだろうか。そこから何が帰結するのだろうか?           
 (来週検討します)